賀茂村歴史探訪

平成元年文芸「かも」より.安良里.高木威一郎氏 作

小田原の役駿河湾の海戦と阿蘭城没落

戦国時代全国制覇をめざした豊臣秀吉が薩摩の島津義久を降した

余勢をかって小田原の北条氏に対しても服従を命じたが

氏政、氏直親子は早雲以来五代百年に亘る関東支配と伊豆、駿河を

含めた五十余の支城の七万三千の兵力を誇示して容易に服従しようとしなかった。

そこで秀吉は天正十七年十一月北条氏に対し断交を通告すると共に

西国大名に命令して二十二万の軍勢をもって翌十八年五月

小田原城を完全に包囲した。世に言う小田原の役である。

これより先、腹心の奉行長束正家に命じて兵糧二十万石を

清水と江尻に集結させ、これを伊勢大湊等の廻船問屋から

徴発した千石船二百隻に満載して、九鬼嘉降、加藤嘉明、

脇坂安治等の兵一万四千と数百隻の連合水軍に護衛させ

小田原沖への廻送を命令した。之に対し北条氏は敵の

進攻を駿河湾上で拒むため、西伊豆にある在来の水軍部隊を

再編成し、三千の軍勢を駿河湾の防衛拠点下田と安良里の

二港に集結し、下田港には鵜島城主の清水淡路守康英が

主将になり雲見の高橋将監と妻良の村田新左衛門が之に参加

更に援軍として江戸摂津守朝忠を派遣した。

その数六百といわれる。又安良里港には梶原備前守とその子

兵部大輔が阿蘭城に援軍として三浦水軍の船大将、

三浦五郎左エ門茂信が豆州あられ足の城に、

又田子の山本信濃守常任之を援護して豊臣連合水軍の

清水からの出撃をまった。

天正十八年二月、海上の西風が静まるのをまって

海戦の火蓋が切って落とされた。

海を覆わんばかりの敵味方の軍艦が駿河湾上を

追いつ追われつ舷々相摩す。激しい船いくさが

繰り広げられた。小田原北条記にこの時の戦を

「豊臣方は九鬼大隅守を大将とし伊勢、伊賀、三河の

兵船、船首と船尾に旗をおし立て、ただ一気に北条水軍を

攻め破ろうと数百の兵船が船端たたいて気勢を上げ、

その大喊声に磯打つ波の音も打消された。一方、北条方も

予期していたこととして大鉄砲を一度に撃ち放す。

敵味方のときの声、矢叫びの響きのすさまじさは

地軸も砕けんばかりであった。」と書かれている。

この戦で北条水軍が誇るあだけ丸(武士五十人、水夫五十人積

両舷を堅木の厚板が囲み大筒一門装備)

を始め関船(四板船という軽軍艦)小早(連絡の早船)

等多くの軍艦は九鬼嘉降の率いる大黒丸(十八端帆

二百挺櫓、二百人乗、五十米から打込める大筒三門装備)

六隻の前には歯が立たず此の大筒によって次々に

撃沈され或いは毀ちて安良里港内深く逃げ込んだ。

勝に乗じた敵は陸上に迫り徳川家康の臣三河の

太平城主本多作左エ門重次の軍勢が安良里に

上陸して阿蘭城とあられ足の城を攻撃又

敵水軍の将向井正綱の兵が田子の

小松城を攻め三城とも衆寡敵せず遂に

炎上して落城したのである。

時は天正十八年の桜花散りしきる

四月一日のことであった。

武徳編年集成にこの戦で阿蘭城主梶原景宗以下

多くの兵士が討死したとある。又、北条五代記に

この時の戦のこととして「向井兵庫田子の小松城を攻め

兵庫矢に当たって傷きたるも遂に城陥り山本常任敗走す」

とあり、三浦浄心なぜか阿蘭城没落のことも又、

父三浦茂信のことも北条五代記に記述しない

「敗戦の将、兵を語らず」というが肉親の敗戦のことは

触れたくなかったのだろうか。

落城から四百年の歳月が流れ此の間、

村は度々の災火にあって之を伝える記録は

何一つ残っていない。然し当時の様子を

うかがわせるものが二、三ある。それは、公民館内所蔵の

古文書、氷禄水帳に百姓六十一人の中に兵衛三郎、左衛門次郎

四郎三郎等の名前である百姓らしからぬ名である。

文禄といえば天正十八年から数えて六年後である。

戦いに敗れた侍たち一旦山深く隠れその後、

村に下って住民となった人達もあるはずである。

日本戦史に「伊豆の北条勢、陸に追い上げられ

兵士山中に隠る」とある。

伝えられる「かくれと」=(隠れ人)の里の石碑が

何かを物語っているように思う。

又天坂の間瀬(まじ)の地名は昔、馬を飼った地名と

いわれているが、ここが阿蘭城の戦に関係

あるのではなかろうか。港内を一面に眼下に

見下す赤地山(足山の一部)は真下に当たる。

ここが本丸とすれば、いざ鎌倉という時

港内に繋留した軍船に対し出陣の命令は此処から

早馬をたてたものと私は推量したい。

又安良里村史に「諸社の造営、修理が江戸時代に

入り急ぎ相次ぎて行われ争乱による禍を蒙りしこと

甚だしからむ」とあり、その証左に慶長十年多爾夜神社の

棟札に「此宮近年大破せる旨」記載され、

又慶長十五年大聖寺及不動尊本殿並みに翌十六年に

浦守神社相次いで修復造営され、其れ以前の

棟筒なしと記載されている。慶長十年は阿蘭城没落から

十五年後である。この時の戦乱で村内は勿論、

社寺仏閣も共に灰燼に帰したことが

うかがわれる。

又、伝承に、昔不来坂の中の地蔵さん

(現在坂本の国道脇祀る)と呼ばれる石仏に、

正徳元年建立 植松所平次の名が記されている。

その昔、所平次の祖先が梶原水軍の御用商人として

特に北条氏から名字帯刀を許されて植松の姓を

名乗ったと伝えられている。因(ちなみ)に

「豆州あられ足の城は譜牒余録(貞京年編)の

後編に記載されている城跡は足山の麓辺で

三浦茂信の居城と思われる。

以上 文芸 かも より

   安良里  高木 威一郎