「入会採草地」の係争について
浅賀 靖

宇久須村と隣村小下田との入会地の係争については古老から聞いていたが、
その詳しい内容は分からなかった。たまたま先輩から「日本の村落構造」(小栗 宏著)
という書物を頂いた。そのなかに両村の係争の経緯と結末が詳細に述べられてあった。
そこで、その内容をわかりやすくまとめてみようと思ったわけである。
1、宇久須の入会地林野
徳川幕末当時から二か村で共同利用していた林野であった。宇久須村はその地域内に
隣村の小下田村との交界地域に沿って二か村の入会地518町2反1畝7歩があった。
今日保存されている関係文書のうち、もっとも古いものは天保四年(1833)の「済口証文」
という両村協定書である。しかし両村のことに対する土地利用上の立場は著しく異なっていた。
即ち宇久須側は植林をする。水源を確保する。小下田側は土地が狭く農業用の肥料
家畜の餌を取得することであった。ところが天保4年(1833)その一部芝山、八甲山の
採草地を宇久須村民が小下田村民の意向を無視して林地に仕立てようとした。
当然、小下田側から抗議がでた。これがそもそも、長く続いた紛争の発端であった。
その年、五月一応、和議が成立して、植林したものは認めるが秣(まぐさ)萱(かや)にまじって
植えてある苗林は鎌で刈り取る、採草地の野焼きは双方とも春二月に行うこととなった。

2、明治維新後の入会地の状況
徳川幕府が終わり、明治の新しい近代国家への出発が始まる。
明治政府は明治12年(1879)官民有区分を判定することになる。そして、かって紛争の原因となった
芝山、八甲山の採草地の宇久須の所有権を確認した。この際、小下田側はこれを機会に
採草地をそれぞれ両村専用地区に区分して利用することによって今後、紛争が避けられると考え
これを宇久須側に提案して図のごとく甲地(宇久須)乙地(小下田)とするように協定をみた。(明治13年)

3、入会採草地と小下田海岸の入会漁業権の事情について
○入会採草地の専用区分の協定をみたのでこの際小下田海岸を示談の上、宇久須村は入会漁業権を
行使するのは建前の通りとし、小下田村において漁業隆盛になった場合は両村戸長が協議して
取り計らうことを確認し合っている。小下田は建前から宇久須村民の小下田地先海岸に入漁することを
認めていたことが知られ、これをひとつの代償として採草地面積を多く割かしめたとみられる。
○明治36年(1903)漁業法の施行
明治13年の協定によって確保した小下田地先海面の入会権が宇久須側に法的に認められる
ことになった。その結果、両村入会採草地の協定とは別個に、その法的効果が生じる見解となった。
しかし小下田側は両村採草入会地と漁業権の問題は土地の特殊事情として両者を分けて
考えることは出来ないという立場をとった。しかし宇久須は、あくまでも宇久須の漁業権は
採草地のこととは無関係とのたちばであった。

4,宇久須の訴訟案件の提起とその判決
明治43年(1910)宇久須は「土地所有権並びに土地台帳共有登録抹消手続請求」
の訴訟を起こす。ことのおこりは明治43年宇久須の山野が野ねずみの害で秣が欠乏したことを
理由に宇久須から乙地刈り入れを申し入れたが、これを拒絶された。そもそもこの訴訟を
起こした理由は何であったであろうか。従来から水源保護林造成があったのである。
造林意欲の背後には治山治水への配慮があったからである。宇久須川の水源が採草地の
ままでは宇久須川流域の耕地は川が氾濫すれば、その災害による村の生産地区が荒らされてしまう。
宇久須の起こした訴訟は宇久須の領分で所有権有りという、天保4年「済口証文」時代の
領有と所有の不分明な見解を盾に、近代的な土地所有権を主張したものであった。
このような主張は明治初年から全国的に各地にみられている。
「たとえ宇久須の村域内にあろうとも、実際の入会慣行が昔から継続してきている場合には
その地盤は共有権が分割されなければならない」これが裁判所の見解であった。
この訴訟は結局、宇久須の敗訴に終わって、小下田の共有権が確認された。
宇久須は見解の対立した土地利用をこのまま継続するよりは地盤を分割して、
それぞれ自由な利用のできる地域を得る方が有利であると考えた。
この考え方は小下田側としてもむしろ望むところで、今後の紛争回避の意味からも
合理的であると歓迎した。しかし分割の原則は賛成であると歓迎した。
しかし分割の原則は賛成であっても帰属地域の位置と面積の点になると容易に
まとまらず大正13年(1924)ようやく協定の成立をみ、「宇久須小下田共有原野割協定分書」
の交換を行った。宇久須村289町1畝7歩、西豆村小下田229町2反の割当として
静岡県に届け出たのは昭和3年(1928)3月のことであった。図に示す通り宇久須は
水源地一帯を確保して所期の目的を達し、小下田は村境に隣接する地域を2区に分けて
獲得し、宇久須村は村有、小下田は部落有に編入した。
天保から教えて実に95年かかって係争が終わり、共有原野入会権を解消した。

平成14年発行文芸かもより


浅賀靖先生の文章なので無学な私には難解な文章でした。一字一句間違わないように文芸かも 
に載っていたものを打ち込みました。又図面がいくつか載っていましたので
そのうち読み込んでのせるつもりです。

トップへ