永明寺山門の斗組(ますぐみ) について

        神田    矢 崎 信 夫


 天城山の支脈が大久須と神田との境で尽きるところに永明寺がある。
五百十数年前の寛正六年に建立された古刹で静岡県指定の
天然記念物となっている大銀杏のあることで近在に知られている。
 寺院の構造様式として、ほとんどの寺が本堂・庫裡・山門
を構えているように、永明寺にもささやかながら寺の入口に
山門が建っている。 ところが昔、ある年の大暴風雨で、
山門が前の道路に吹き倒されてしまった。夜の明けるのを待って
住職は檀家の人達にふれを出し、近くの棟梁を頼み、
元の位置に直すことにした。 早速みんなは、倒れている山門を解体して、
元の位置に組み立てる仕事にとりかかろうとした。
すると今までじっと山門をどのように復元するかを考えていた棟梁は、
みんなの、ほごしにかかった作業を大声でさしとめた。
棟梁はそこでみんなに、山門は解体するよりも更に人を集めてでも、
大勢の力でそのままもとの位置に引き起こすようにと下知した。
苦心さんたんの末、山門はつぎの日の夕方になって、
もとの位置におさめることができた。
 この山門は、柱の上にある、桁や軒を支える組物、いわゆ
る斗組に特別の作り方がしてあって、釘一本使わず最後はく
さび一本でとめてあり、これを解体すると、よはど力量のあ
る大工でも、もとのように組み立てることはむずかしいもの
だそうだが、まだそのことはあまり人には知られていなかっ
た。もしこのとき、この山門を解体してしまったら、或はも
とのように組み立てることができず、今ある均整のとれた、
しかも宇久須には他に例のない斗組の構造をもった永明寺の
山門は、そのときに姿を消してしまっていたかも知れない。
 はじめ、引き起こす作業の大変なことで、そのなりゆきを
いぶかっていた人々も、後でその事情がわかり、解体せずに
仕事を進めさせた棟梁の眼識の高さをほめたたえたということである。
 これが凡庸の大工であったら、人夫達が解体したあと、そ
の仕末がつかず、特に組みはずした斗組はどこかに片づけら
れてしまい、山門はただ礎だけを残すだけになってしまった
だろうと、寺に人寄せのあったときなど、そのことがよく話
題になることがある。
 この話は父がまだ働き盛りの頃、問わず話に聞いたもので、
そのときの印象としては、これは伝承というより実際にあっ
たことのように思えた。然し、そのときの棟梁が誰であった
か、何時頃の出来事であったかは聞きもらしてしまった。ま
た寺院建築の特徴を示す斗組についても、どこにその秘訣が
あるのかまだよくわかっていないので、心あたりの人に聞い
たり、書き物か何かで調べて見たいと考えている。
 勿論、このような建物は奈良や京都あたりに行けばずっと
規模の大きいものがあちこちで見られる。見聞を広くする意
味で、年々行われる小・中学校での修学旅行は大変良いこと
だと考えているが、一方郷土の足もとにも、たとえ構えは小
さくても調査に価する資料がたくさんあることと思うので、
大人と言わず、子供と言わず、みんながその点に日を向けて
いくようにしたらと思っている。そして何時でも、どこでも
よいから話題に出していくようにして欲しいと願っている。
                     (郷土研究部)

昭和54年賀茂村文化協会発行 文芸かも より


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