郷土研究 ノン・フィクション
  田子沢(タゴザー)のキツネ


              安良里 藤 井 徳太郎

 浦上川は安良里の三大河川の一ツに数えられているが、雨
が十日も降らないと水の流れは全く跡絶える。川下より約三
〇〇米はコンクリートの床張りがなされているがそれより上
は一抱えも二抱えもある大石が折り重なって上流へ上流へと
つゞく。さながら岩捨場の感だ。
 それが雨となり、豪雨となり、土砂降りの雷雨となると忽
ち水嵩を増した流れは縁を噛み、濁流となってうづを巻き、
これらの岩を浮きたたせ、踊らせて水中で激突し合い、土手
を襲い、ヅシン・ドシン・ゴ・ゴ・ドシンと不気味な地響き
をたてて激震を残しては去り又つヾく。今にも土手が切れる
ではないかと思わせ、浦上部落を恐怖に陥れる暴れ川と化する。
 この浦上川の南側に、あまり高くはないが起り立った山並
みが東西に連なっている。これらの山間の一番低い所が、い
つ頃から山越えの道となったのか、この峠を田子坂とよぶ。
浦上川より田子坂までの一帯の洞は公簿名は「田越」である。
草木の朝露や田子坂一帯の絞り水をあつめて浦上川に注いで
いる溝川がある。ふだんは全く流れはないこの溝川を田子沢
と言うが里人は訛って「タゴザー」とよぶ。
今ではこの洞一帯の呼び名となっている。
洞の樹林は根を張り、幹を太らせ、枝葉をのばして鬱蒼と茂
り、昼なお暗くタゴザーを覆っている。ここにキツネが棲むと里人は言う。
昭和七年の県道(現国道)の開設をみる迄は浦上川に架かる
土橋を渡ると、タゴザーに添うように上り勾配の石畳の三尺
道が谷間にのび、三〇〇米ほど進んだあたりから急勾配の坂
上りとなる。僅かに進んでは右に曲がり、また左に折れてま
た右に、息をはづませて一〇〇米、やっと峠の田子坂に辿り
着く。汗ばんだ躰を涼風が迎え壮快このうえもない。
峠下りも同じように急斜面と下り勾配の道がヅーと続き、
大田子部落に入る。峠から部落までこの道を大田子の里人は 「アラレ道」と言う。
この道が田子への往還であり、伊豆西海岸の唯一ツの主要地方道であった。
 トクは朝日の差す庭先まで出て「お前さん、随分遅かった
ジヤ」と言って夫を迎えた。
「うん、一寸変わったことがあってサ」と言いながら富太郎は家に入った。
 いちは大田子の親戚の法事に招かれて二・三日前から手伝
いを兼ねて来ていたが、総てのことが終わったので 「オレは
今から安良里へ帰るヨ」と皆に言った。親戚衆は偶に来たの
だし、モット遊んでいくよう引き止めたが 「貰ったご馳走も
ウンとあるし、どうしても帰るベエ」 と言いはるので、それ
ではこれを家の衆に喰べらしてくれと言って稲荷鮓を台所か
ら大皿一パイ乗せて持って来て大包にして、遠慮するいちに
渡した。「では貰っていくヨ」と肩掛に背負い親戚の家を後にした。
 田圃の畦道を通り、大田子川沿いの道に出て田子坂を目指
した。大城防の上り道にかかる頃になると僅かに暗くなって
来た。円城寺の竹やぶの中の道を進む頃は真暗となった。
足下も定かでなくなり、困ったことになったナーと思い、心
細くなるとともに淋しくなったきた。フト前を見ると提灯の
灯が見える「オーイお前方はどこへ行くんダ」と聞くと、安
良里へ行くのだと返事があった。「オレも安良里へ行くんだ。
一緒に頼むニ」 というと 「アア、いいとも」と答えをくれた。
ああ助かったといちは独言を言い乍ら提灯の灯に追いついた。
近づいてよく見ると、十八・九歳位の美少年がにこやか顔で
立ち止まって待っていてくれた。二人は世間話などをしなが
ら田子坂の峠でひと休みして下りはじめた。
僅かに下りはじめた頃「お婆さん、オレは一寸手水に行って
くるよ」此所でまっていてくれるようにと、若者は言って提
灯を渡して横の茂みに入って行った。
伊八屋の明神丸は夏の鰹漁の最盛期であったが、漁況が一
息したので、この刻をねらってシキンドロ(船体に付着した
牡蠣・藻・沼等を取り落とし、塗装をする作業)を計画した。
安良里には大型造船所もなく従ってヨーイトマケ・ソーラマケの
人力によるカグラサン式引揚ドックも無かった。
シキンドロの必要品を積み込んだ明神丸を田子港に廻航し上架して
その日一日の作業を終えた。大勢の乗組員達はその日
の夕方みな安良里に帰ったが、富太郎と竹松は船番に当たっ
ていたのでその夜は船で過ごした。
浜辺の朝は早い。午前三時炊の小船方を残し二人は船を後に
した。田子の磯辺を通り、部落内の近道を経て田子坂で一服した。
下りはじめて僅かすると異様な声とも音ともつかぬ不気味な
響きが聞こえて来た。ウ・ウー・ウ・ウ一鬢の毛が総毛
立った。立ち止まって耳を澄ました。恐る恐る音響に近づい
ていって驚いた。左道下の溝に一人の老婆がシッカリと茄子
を抱えてうづくまっていた。元結はとけて長い髪の毛は顔に
かかり帯はどこでとけたのかオビロハダケ、草履もはかず、
着ているものは、ところどころがカギザキとなって顔や手足
から生血が吹き出している。まわりには、めし粒やちぎれた
紙切れが散乱している。物凄い形相で二人を睨みつけた。二
人は仰天した弥四郎屋のお婆アさんによく似ている。どうも、
おいちサンだ。これは此所に棲むというキツネに憑かれたの
 だと二人は直感した。
 「お前チャアだれだ」 「おらあインキョの富とマンキの竹だ。
お婆アサン、お前方は、そこで何をしているンダ。サア、早
く俺の背中に乗らっシャイ」 「オラア連れを待っているンダ、
連れが来ない」と言いはるのを無理やり立たせ、二人は交互
に背負い、弥四郎屋の門口で下し、まだ寝静まっている雨戸を叩いた。
家の衆は戸を開けてピックリした。まだ二・三日、大田子に
居てくるものと思っていただけに、この姿、形を見て震えた。
いちは門口で米簑で二・三回の悪霊の扇ぎ出しのお祓いを受
けて家に入れられた。(注・野山で怪我をしたり、急病に
なって担ぎ込まれた場合等にこれをやる。この時なにか念ず
る文句があるではないかと思い一・二の人に尋ねたが答えに
当たらなかった)創口はオキシフルで消毒して拭きとり床に入れられた。
富太郎は話し終わって朝餉の著を置いた。
このことがあってからか、野山を越すときとか、野良仕事に
行くときはイナリサン(鮓)を持って行くものではない。キ
ツネに憑かれると言うようになった。今でもこの教訓は口伝されている。
富太郎・竹松共に二十五才いちサンは四十六・七歳の大正年
代半ば頃の話でありノン・フィクションである。

平成4年賀茂村教育委員会発行文芸かも より 

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