郷土 研究−


  郷土の古代史をさぐる
          安長里 高 木 威一郎

 寛政十二年(一八〇〇) に秋山富南が著した豆州志稿巻之
四、山嶽の部に安良里恋路山について「田子村との村界が入
間山で、その東北面に恋路山に右馬嶺あり。」と記載されてい
る。岩波広辞苑によると石馬とは、石人石馬のことを言い、
昔その地方を支配した豪族の墓の前に置かれたとある。この
石馬嶺に関係すると考えられる村内にある古代遺跡を調べて
みると、角川日本地名大事典に安良里の大野山に縄文時代の
遺跡があることが書いてあるが、その詳細は分っていない。
又静岡県史にも大正三年六月、大岩の楠ケ段から遠州式蛤刃
の磨右斧(この石斧は三浦半島の南下浦町の洞穴より出土の
貝包丁などの例からみて弥生中期以降のものと推定される。)
が出土したことが書かれている。この石斧は当時専門家が鑑
定したらしいが、これを知る古老の話では大正時代旧小学校
の教員室の戸棚の中に陳列されていたというが、今その所在
が不明である。又宇久須の月原遺跡及び縄文時代の大平戸遺
跡のことも記載されているのがこれもまた詳しいことは分っ
ていない。近年にも三滝山の山畑より磨石斧が発見されたと
するが、これは弥生時代のものと思われる。近隣の西伊豆地
方にも田子地内に縄文遺跡が又近年大田子の田子中学校舎建
設の時、敷地より弥生式土器多数が出土したことが報じられ
た。又仁科では鴨ケ他の弥生遺跡、佐波神社境内遺跡、古墳
時代の栗原遺跡より縄文土器が発見された。又松崎町では上
の段遺跡、天神遺跡、五十七年十一月岩科川流域から平野山
遺跡が発見されている。斯くしてみると豆州西海岸一帯に縄
文時代(前七千年から前二千年頃) から弥生時代(前二百年
より前五〇年頃) に亘って石器を使って生活の基盤を主とし
て漁撈に求めた先住民族が各部落に住んでいたことがわかる。
これら古代人遺跡については後日更め詳述することにして、
前述の右馬嶺について古老の伝聞を紹介することとする。こ
の古老の話に縄文遺跡のあるという大野山の山つづきの奥の
沢に 「こんもり」した小山がある。ここを昔から「馬の首」
と呼んで卜たという。「静岡県の史話」によると大昔、大干
旱のときは馬の首を絶って雨乞いをしたことが書かれている。
安良里でも私共が子どもの頃、大野の山の頂で火を焚いて雨
乞いをしたことを記憶している。浜名郡可美村で古代より中
世に亘る復合遺跡が発見されたことがあるが、この城山遺跡
の奈良時代の地層から馬の骸歯が出土した。これを考古学者
は馬の首を埋めたものと判断し発表したことがあった。これ
は大阪の茨木遺跡の例などから雨乞いの儀式が行われたこと
から推定したもので、その裏づけとして明治の初め摂津の稲
野村で大干早に苦しんだとき、古くから村に伝わる口伝から
川の源流にある滝つばに馬の首を投げ入れて雨乞いしたとこ
ろ、御利益てき面、村人が山を降る頃は大雨となったという
記事が当時の新聞に載ったことがあった。つまり、馬の首を
神に捧げて雨乞いする風習が現実に近代まで行われてきたの
である。又「日本書紀」 にも皇極天皇元年(六四二) の大早
に村々の占師が集って牛馬の首を杜の神に祀って雨乞いした
ことが書かれている。県内においても静岡市浅畑の伝説にも.
沼の池に人知れず馬の首を投げ入れて雨乞いしたという話が
昔から伝えられている。又御殿場の深沢地方でも麦藁で作っ
た馬の首を川に沈めて雨乞する古来の儀式が復活して行な
われているということである。斯くしてみると豆州史稿に書
かれている恋路山の石馬嶺は、果して何を物語るものだろう
か。昔、村の農民が雨乞いのために石馬を祀った所か、将又
この地方を支配した族長若しくは豪族の墳墓の上にたてた石
馬像のあった場所か、或は太古の大野山遺跡に関係あるもの
か、いずれにしても郷土の古代史の謎であり、未知のロマン
をかきたてるものがある。今後の研究の課題としたい。
昭和59年教育委員会発行 文芸かも より

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