懐 古 録

  安良里に於ける漁船の今昔

平成元年発行 文芸 かも より 安良里 藤井 高之助

私が幼少の頃、当時の古老に聞いた話叉は年少の時代に

見たり聞いたりした事を一筆書きます。

これには何の資料もなく又一片の参考書もなく

ただ自分の記憶ですので誤差があるかも知れません。

この村の漁業は元は小さな伝馬船でした。

大きさは船の全長の中央部にて曲尺で何尺何寸と

言いました。櫓は一丁か二丁で沿岸のイカやカサゴを

釣って業としていたそうです。又秋になると

ヅラシと言って朝の三時頃起きて二隻の船で

キミイワシを囲み、それを餌にしてウヅワやシイラの

一本釣りでした。段々と船が大きくなって和船に

十四丁か十五丁の櫓船で大島の木々の色が

黄色くなったのが見える程度まで出漁し魚群を追って

漁をしたそうです。私が小学校に入る前に和船に

エンジンを入れた船が一隻ありました。

当時のエンジンは電気着火といって

五寸径で七寸位のツボの中へ硫酸を入れ併せて

炭素棒(今の金剛砂砥石)を入れて発電して

始動したのです。

何分にも調子が悪く中途において度々帰港

したこともありました。

当時のエンジンは注水式無点火といいまして

船の中央部に水槽を作り一航海分の淡水を確保し

出港したのです。当時の船は素船でありまして

レーダーもなければ魚群探知機もなくただコンパスを

唯一の設備として航海し夜になれば船首に立って

見張りをしたそうです。船員の苦労は大変なものでした。

船には操舵室もなく賄室もなく船尾馬乗形の箱の上で

操舵したのです。船が大漁すると船首に大漁旗を

立てて入港したのです。昭和十七、八年頃

太平洋戦争の中ばイルカが大漁で中型船が増加し

時折大型船も参加して捕獲したのです。

昭和二十一年と思いますが毘沙門丸が

二十七、八トンの漁船で神戸の木しろ鉄工所の

無水式エンジンを入れ、二本煙突でみな

見学に行きました。以上は木造船でした。

イルカも段々と減少しました。

大型船が増加し最盛期には二十四、五隻になり

船員確保に船主も苦労しました。船のエンジンも

ディーゼルになりエンジンの入替も行われました。

それが今では鋼船になり船形もクレーザースタンといって

丸形になりました。その当時、鮪の専用船が二隻

ありましたが船主の都合で売船致しました。

最近になりまして大型船が一隻減り二隻減るに

従いまして中型船と小型船が増加致しまして

繋留場のない状態です。新聞紙上によりますと

大型船が漁礁になったとの事ですが、

これを建造する時に何時かは駿河湾の海底にて

魚群の生息地になると予想した人が

あるでしょうか。過去に於いて太平洋を東西南北、

魚群を追って大漁した事を思うと感無量であります。

海底にある船に感謝を捧げましょう。何時かは

船形が変わりエンジンが改造されて大型化して

大型船が増加して港を華々しくする事を

望むものであります。