永明寺の子安(こやす)さん
永明寺(ようめいじ)の本堂の右手の間に厨子があり、子安像を安置してある。
通称「永明寺の子安さん」といって近在の人達に親しまれている。
「子安さん」というのは、子安観音のことで、婦人の安産を守り、
子供の成長を助けるという信仰が、その起源である。
ここの子安さんは、毎月23日を縁日ときめて、子安講の人達が集まって
和讃や念仏などを唱えて、その仲間同志の団らんを楽しんでいる。
また子宝に恵まれるようにと、寺に参りに来る人もあると聞いている。
因みに本尊は木製で、高さ約90センチ、胸部は嬰児を抱き、温容柔和な
相をしておられる。厨子の中には棟札が2枚あり、1枚は延命地蔵大士、
他の1枚には子安地蔵大菩薩と記してある。
先代住職機山老師の話によると、昔は子安さん参りのために仁科や大沢里の人達は
大久須の やしゃばら峠 を越えて、この寺に来たということである。
そして願いごとを紙に書いて、これもまた、子育ての伝承のある
境内の大銀杏に結びつけて帰ったという。
子安さんというのは書物によると、子安神とか子安地蔵ともいわれ、
仏としてばかりでなく、神として祀るところもあるようである。
永明寺の子安さんにも、どうかすると、しきみに代えて榊を供えてあることがある。
清和、陽成、光孝三代の天皇の御代の歴史書である三代実録によると、
美濃の国子安神云々とあって、子安さんはいわゆる式外古神ということになっている。
昔は通常の神社は、式内社といって延喜式神名帳に記載されている。
したがって子安さんは式外古神として仏教伝来以前にも、妊婦の安産を
守る子安信仰の対象として存在していたように考えられる。
子供が安らかに生まれることを願う心情は、人類の発生から未来永劫につながるもので、
いずれの宗教においても子安信仰の存在する事は当然のことわりである。
永明寺の子安像は文化11年(1814年)の棟札によると、
もと大久須の中央部に堂があって中の堂といわれ、同年7月
山口県三田尻村の行者作次郎という人が、今の像を彫刻安置したということが、
その当時の永明寺住職仁寛和尚の選文に記されている。
このことから、子安像を祀っていた中の堂は、永明寺の管轄下にあったものと
考えられる。また、大正13年(1924年)の機山老師の選文による
別の棟札によると、その後堂の荒廃がひどくなったので、
明治の初め頃に永明寺に移したことになっている。
そして大正5年以来有志が東奔西走して財を求め、大正13年9月、
現在のように再興されたということである。
文化11年の昔、はるばる山口県からきて子安観音を刻み、
中の堂に安置した行者のことや毎日、方々に行脚して浄財を集め、
厨子を再興した人達の労苦を思うと、その信仰的熱意に頭の
下がる思いがする。