田子嶋は動いた。

文芸.「かも」より.安良里.藤井徳太郎

田子港沖合3粁に大小無数の岩礁が点在している。

男島.女島.マルボー.カジノアタマ.沖の島.セッチマ.大島.小島

平島.大棚.青根角.マナイタ.入江.ムシクイ.鰹島.大平床.コブ島

フタマタ.カアゴなど悠然とその英姿を見せているもの、僅かに波間に

見え隠れするもの、一日に数時間しか顔を見せぬものなど、

之等を総称して田子嶋という。

男島.女島は港口より西方1,800米.白崎より1,500米に

位置する。男島は海抜30米位.女島は10米位で、共に

僅かに数本の黒松と、ウバメガシが自生し風趣を添えている。

昭和29年3月女島に海上保安庁によって灯台が建設された。

総工費は1,942,203円で同月12日竣工式を挙げている。

白亜の美しい清楚な姿で東経138度44分北緯34度48分に

航路標識としている。灯質は閃光式で晴天闇夜の光達距離は

16マイル(約29粁)(粁=キロメートル)

夜間付近を航行する船舶の安全を担っている。この男島.女島に

海洞があって伊勢海老が棲息し禁漁区となっている。

田子の田子嶋みごとな嶋よ.中がガランで海老が棲む

と民謡にも古くから唄われている。

昔むかしの話である。

まだ発動機付漁船もない頃の話だからだいぶ古い話だ。

安良里は西伊豆海岸唯一の天然の良港をもつと共に漁業が大変盛んで

漁民も漁船数も多く、従って鼻柱も強く勢いもあった。

田子はその字のとうり田圃の方に力を入れていたので

海の方については比較的関心が薄く、金は田圃で稼ぐものとして

僅かな漁民が之にたづさわっていた。

この田子嶋、黒潮の恵みを受けて海藻は茂り魚介類の一大宝庫である。

岩場に腰掛けて竿を出せば鰹が釣れ鮪が釣れ、海老や鯛の5.6匹は

朝飯前の手馴しだという好漁場だ。

この漁場へ安良里の漁船が大挙して連日あらわれて寄る来る魚を

釣り上げる。それにしても遠慮勝にしている2.3隻の田子船を

数の力で圧迫し、我が物顔に振る舞って漁場も与えない横暴さに

如何に大人しい田子衆も黙っているはずはない。

堪忍袋が一杯になった。

この侭では生活権も危うくし、領有権も危険だと足利代官に 直訴人を急派した。

これを聞いた安良里衆サア大変ダと幹部が鳩首協議をした。

アアでもない、コウでもない、すったもんだと意見は出たが

神様とお役人には上げ物だ、袖の下が一番だ、そうだそうだと

衆議一決、足の早い若者に金子大枚一包と海老と鯛、酒肴を持たせて 急行させた。

この使者、三嶋大社の鳥居の前で田子の直訴人を追い越して

足柄山に駆け上がり、夜明け前の代官屋敷の裏木戸で袖の下の

作業をした。この袖の下が効を奏した。一筆書いてくれた。

「田子嶋は田子のものに御座無候」

推し戴いて安良里の使者小踊りして嬉んだ。

これを垣間見ていた田子の直訴人、なんとかして之を奪おうと

狙っていたがなかなかその時が来ない...

が、ついに来た。足柄山の下り道、急ぐあまりの安良里の使者

石に蹴つまづいて突んのめり右足首を捻挫した。

サアこの時だ、俺が持ってやると書状を入れた状箱を

力一パイひったくり一目算に箱根街道を駆け下りた。

一方現地だ。代官役人の検地に来る前に田子嶋を安良里沖へ

移そうと280人の腕っ節の強い屈強の若者を選び出し

28隻の手漕船に振り分けて嶋に大廻しに綱を掛け

真後の真ん中に舵を差し、締め込み一本の素裸で北に流れる

ウラ潮に合わせエンヤ、エンヤと掛け声高く漕ぐに漕いで

引っ張った。動いた。島が、動きだした。

波を切って進みだした。それ今ダ、2米80糎(センチ)北に

動いた。その時、代官屋敷に赴いていた田子の直訴人が 大音響で叫んだ。

「安良里のドウコー共よく聞け、之なるは代官様の御布令書きだ

田子嶋は田子のものに御座候」

と如件の書状を読み上げて、これを安良里の総司令官に 突き即けた。

この総司令官、人呼んで勘の又八大船頭

漁況を視ること気象を視る事伊豆きっての第一人者、

声もいかいが目も達者、網屋岬に座していて

清水湊の御穂神社の灯台下で跳ね飛んだ、カジキマグロを見て

ソレ右だ、ソレ左へ行けと追船に指示したほどの眼力者だが

何分にも文字についてはカラキシ駄目、汐風に陽焼けした真黒い顔を

赤くした。それでも長官としての沽券にかかわると大きな目玉を

ギョロッとさせ「ウンそうか」と威厳をもって頷いた。

側に居た幕僚の副船頭もこれを見て、正しくそのとうりと

頭を下げてアッサリ認めた。二八○人の全員は漕ぐ櫓から

手が離れ、していた鉢巻を船底に叩きつけヘナヘナっと 胴の間に座り込んだ。

この直訴人田子きっての知恵者、口も八丁、手も八丁

やることなすことソツのない切れ者、如件の書状の

文字の「無」の字を親指で押さえ隠して見せたのを 安良里衆は気がつかなかった。

ここで一日遅れて到着した安良里の使者、経緯を聞いて

そんな馬鹿ナと、顔色を変えて立腹した。

田子側に数度掛け合ったが埒が明かない、

嬉しさのあまり書状を両手で差し上げていたところを 風に飛ばされ海没したと。

鎮まらないのがこの使者、水深二尋八ビキの海底を 二八日かけて捜したが見当らない、

これがもとで田子衆を田子犬と呼ぶようになったと。 御免なさい民話ですから...

数日した二月八日田子月之浦海岸の番納屋で 双方の代表二八名出席のもと和解手打の宴が

催された。 酒が出た、料理がどんどん運ばれた、 ご馳走だ、唄となった、踊りとなった、座は賑わった。

誰かが唄った大声で 田子の田子嶋安良里でしょぶく

潮のウラ潮でエエンヤエンヤ しょぶく安良里もむりもない

歌は僅かに流行って民謡として残った。 田子衆は嶋の位置が変わっていることを村中全員が

昼寝をしていたので誰も知らない。 今、安良里沖から田子嶋を見ると島が二ツになって

割れて見える。これはその時できた亀裂であると。 またその時差した舵が男島と女島のまん中に今でも

差した侭で残っていて柄の部分が見えている これを「舵(かじ)の頭」と呼んでいる。


平成元年11月発行文芸 かも より

安良里 藤井徳太郎作

田子嶋は動いた 終